あわあわペンギン

ひたすらどうでもいいことをつぶやくだけのブログ

冥福を祈る

誰かの冥福を祈る記事ではなく。

ネットのニュースの訃報記事のコメントに、必ずならぶこの言葉に対して私は違和感を抱いてしまうのだ。例えば偉業を成し遂げた人、最近みかけないけど昔有名だったひと。自分の人生とはあまり関わりを持たないひとが亡くなった時、この言葉を書くことに抵抗がある。

 

冥福を祈るとはどういうことか。辞書には亡くなった人の死後の世界での幸福をいのる、とある。

例えば先日亡くなった作家の渡辺淳一氏。本は割と好きな方なので、性愛小説で有名な方として、代表作の名前ぐらいはいくつかあげられる。あまり得意なジャンルじゃないから読んだことはないけど。そうだ、数年前に新聞の連載小説になってた時には、毎朝濃厚な連載をちょっと気まずい思いをしながら読んだことはあるな。まぁ、その程度の認識の方だ。

 

面白い経歴の方だし話題になる方として別に嫌悪感は無い。訃報を知って思ったことは「ほぉ、失楽園の淳一先生が亡くなったのかぁ、まさか小説さながらのすごい最後だったとか…」てな失礼極まりないものだった。すみません。もちろんそこに、渡辺さんの死後の世界での幸福を祈る気持ちは特に発生していない。(もちろん死後の不幸を願ってるわけじゃない)

それを、すべてすっ飛ばして「渡辺先生が亡くなったのね、ご冥福をおいのりします」って書くのはなんか嫌だなぁって思うんです。いや別に書かなくてもだれも困らないですけども。

私は文才も何もないし、気の利いた文章なんて全く書けないけど、自分の気持ちに忠実でないものは、なるべく書きたくない。ここにはささやかなこだわりがあったりする。私は自分の人生に直に関わりを持たない見知らぬ人の死後の幸福をのべつ祈るほど、いい人じゃないのだ。

 

ただし、例外はある。子供が虐待で命を亡くしたニュースに触れたとき。目を閉じて冥福を祈る。心から。私は子供が親に虐待で殺されるのが、この世で一番哀しい死だと思ってる。自分をこの世の送りだした人間に、守ってもらうこともされず、恐怖に怯え、愛を欲し、殺められた子供の気持ちを思うと、もうたまらなくなる。そしてどうか天の国というものがあるのなら、せめてそこでは幸せになってと、祈らずにはいられない。

こんな気持ちになった時でなければ、「冥福を祈る」って言葉は書きたくない。